髭切

鎌倉幕府を聞いた源頼朝の所持する名刀も多かった。 「髭切」はその中の一つ。髭切は、もともとは平安時代中期、源満仲の代に作られた太刀で、陸奥国(東北地方)の刀匠が作ったとか、筑前回(福岡県北西部)に住む異国人の刀鍛冶が作ったなどといわれている。また、現在この太刀を所蔵する北野天満宮(京都府)によれば、当初は「安綱」と刻銘しであった。 源氏重代の太刀として大切にされてきたこの髭切は、たびたび名前を変えたことでも有名である。 まずは、罪人の死体を使って試し斬りをした際、髭まで斬れたことから、この名 が付けられた。そして、満仲の子・頼光の代のこと。 ある日、頼光は家臣・渡辺網を使いに出した。すでに日も暮れかかっていたため、網には馬と髭切を貸し与えた。その夜、綱が京都の一条橋にさしかかったところで、若い女性が声をかけてきた。 「夜道が怖いので、五条まで送ってください」 快く引き受けた綱は、女を馬に乗せて走りだす。すると突然、女はその姿を鬼に変え、襲いかかってきた。このときの太刀が、頼光より借り受けた髭切で、この出来事ののち、「鬼切」に名前を変えたといわれている。その後、為義の代には、獅子の泣くような声で肌えたことから「獅子の子」と呼ばれるようになる。

義朝の代になると、源氏の敗戦が続く。すると、義朝が信仰する八幡大菩薩に祈願に行くと、 『友切』という名が縁起悪いと、お告げを受けた。それに従って、もともとの名「髭切」に戻すと、源氏は勢 いを取り戻した。 義朝が死ぬと、髭切は息子・頼朝に受け継がれ、源平合戦を勝利に導いたとされている。